Mayumi Itsuwa

Mayumi Itsuwa

自分物語

1.誕生

それは月夜のことだった。東京、中野新橋の神社裏に暮らしていた母は産気づいて近くの産婆宅へ走っていった。

3人目の子供は逆子で生まれてきた―それが私である。

26歳、銀座に勤めていた彼女はすでに4歳と1歳になる子供たちの母親だった。

戦後で混沌とした街での生活だったが、新宿で生まれ育ち、持ち前の天真爛漫な性格がさいわいしたのか、どんな状況も克服してきた。

そんな母親の腹から生まれたことはまずまずの出だしだったが、幼い頃の記憶の中に生きているのは、いつも隣にすわる食卓でごはんの入った私のお椀の中におかずを次々と放り込む母とか、泣いていると「何を泣いているの、この子は」という突き放す母である。

働く女性であったから、甘やかす暇などなかったのだろうが、

やっぱりおかーちゃんにはいつもそばにいてほしかったのだ。

幼児の頃の記憶がひとつ残っている―それは母が帰宅したあと玄関に並べて置かれた奇妙な形の、かかとの細長い危なそうな靴に足を入れた時の何とも不快な感触だった。

お茶目な笑顔で「足には自信があるのよ」とハイヒールをはいて、さっそうと歩いて行く後ろ姿が印象的だった母は現在87歳になるのだが、今でもうらやましく思えるほど気丈で、苦労をしてきたとは微塵にも感じさせないくらい若々しいのである。

2.家

学校から帰ると、父があたまに手拭いを巻いた姿で大工仕事をしていた。

「ああ、真弓。ちょっと手伝ってくれ」

「またかい、私は女だぞ」

と心の中で反発しながらも

「うん」

と素直に返事をすると

「ここのところをちょっと押さえててくれないか」

着替えるまもなく、木くずにまみれた木材の山にポンとカバンを置き、

なんだか知らないが言われるとおり押さえた。

何を作っていたというわけではない。

家を改築していたのである。

前に住んでいた場所から2百メートルほど離れたところに売り出された、

当時としては珍しい2階建ての家を買ったのだが、構造に納得いかなかったらしく、

あちこちをトンカチでつついては「リフォーム」をしていた。

壁をはがしたり、枠を壊したり、階段を取り外したり…

ある時は屋根がなく、

しまいには家の四隅をジャッキで持ち上げていた。

いくら南の海で育まれた筋骨隆々の素晴らしい肉体とはいえ、

やることが素晴らしすぎる…。

おかげで家はいつも建設中の状態で、冬などはすきま風が吹き込んで寒かった。

あばら骨が露出したスケルトンハウスである。

そんな居住条件の下では、普通起こりえないことも起こる。。

ある時二階できょうだいで遊んでいたら急に床が抜けてそのまま下に落ちたのだ。

怪我をしたかどうかは覚えていない。

忘れるほどその環境は強烈な印象だったのである。

それでも周りはすべて平屋作りだったから、晴れた日は一日中太陽や月が見え、

北側の小さな窓を開けるといつも大粒の北極星がきらめいていた。幼い頃の忘れられない情景…その1、

今でも北極星を見るとたまらなく懐かしく感じるのである。

3.部屋

家の中に出入り禁止の部屋があった。

そこは床がベニヤ板一枚かぶせてあるだけなので危険だというのだ。 たしかに怖かった。

板と板の隙間からは玄関が見えた。

「ぶるる…」足がすくみ冒険好きの私もさすがに入ることを躊躇した。

だが、戸を開けると珍しい古楽器たちが私を手招くように置いてあった。

バイオリン、アコーディオン、笛、ギター… まだ他にもあったかもしれないが、

何しろ他のガラクタに混じって雑然と置かれていたので、記憶にあるのはそれくらいだ。

好奇心の旺盛な子供に入るなと言っても無理である。

おそるおそる部屋に入り、楽器のある場所に…

まずバイオリンを手にした。

そばにあった弓は数本切れていたがふさふさと豊かに張られていた。

父が弾くのを何度も見ていたので、

同じようにその弓で弦をこすって見た。

しかし、まるで音が出なかったのですぐにあきらめ、

「何でこんなもので音が出るのだろう?」という疑問だけが残った。

次にアコーディオンを弾こうとしたがもちろんこれもダメだった。

音を出すのに空気を動かすテクニックが必要だから、

ただ鍵盤を押さえてもウンともスンともいわずパス。

今度こそはとギターにうつり、弦を触ると音が出た。

「おっ」と喜んで父の真似をして膝にのせたはいいけれど

「ボロロン」と6本の弦をなでてただそれだけであった。

私はすっかり落胆して二度とその部屋に入ることもなく、そのおかげで

再び転落することもなかった― というわけである。

4.兄弟

兄とはよく喧嘩をした。

なにしろ兄は一年しか先に

生まれていないのだから、

私がこの世界に出現してから

双子のように同じようなことや物を求め、

取り合いながら成長して来たのだろう。

乳児と幼児、そして幼児と幼児になり…

そんな子供たちがそこにいると想定するだけでも

一瞬たりともほって置けない状況であることがわかる。

ああ―おそろしや。

何が起きたのか…空白の記憶でよかったかも?

私は女なので、おそらく腕力ではいつも負けては泣いていたに違いない。

思い出せる範囲内で語るとすれば…

「ごめんなさい、もう何も言いません」とは絶対言わず、

「あんたのそこが悪い!」

と説教じみたことを口にしてしまうから

なおさら相手の怒りを増長させるのだ。

だからその分殴られる数も増えたというわけ。

頭を思いきりげんこつでボカッ!

痛えエ…ちくしょう!

(もはや妹というより弟である)

と、歯を食いしばるしかない私であった。

そんな兄にある日ビクター少年合唱団からスカウトがあった。

家を訪問したのか学校の先生を介しての話であったのかは

覚えていないが、兄の声は素晴らしいボーイソプラノで、

ぜひ、と押されていたことは覚えている。

「へえ-っ!」私たち家族は一様に驚いた。

日頃は誰もそんな歌声を聞いたことがなかったからだ。

(注;私たち家族はお互いに無関心だった。)

私と姉は驚くやら興奮するやら、

「すごい!ぜったいやって」

と心の中で叫んだが…

結局、お金がかかるということでその話は断ることになった。

(注;両親は現実的だった。)

その日を境に兄を見る目が少し変わった。

学校でも音楽の先生や生徒たちがみな

兄の持つ音楽性に注目していたが、

私が最も兄を誇らしく思ったのは

彼が中学卒業の際にステージに上がり、

フルートで自作の曲を奏でたことである。

その音色は今でも思い出すたび頭の中で流れてくる。

それにしてもあんなに殴られて頭大丈夫だったのかなあと、大人になってから心配したものだが、去年受けたMRI脳検査によると異常は見られなかった。ハッハッハ........(今でこそ笑える)

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