Mayumi Itsuwa

Mayumi Itsuwa

インタビュー(毎日新聞より)

少女の頃

-  一番小さいときのこと覚えてる?

そうね、私は足かなんか汚れちゃって、いつも真黒で、いつも夕暮れのことばっかり思い出すんですよ。夕方、暮れどき、特に晴れた夕暮れの時かな。夕日が出てる時ですね。その時間というのはものすごい自分が自由に行動できる時間というか、今、思い出してみると、そうですね。朝でも昼でもなく、夜寝るときでもなく、解き放たれた飼犬みたいな(笑)、その時は自由に、「おもしろそうだから行ってみよう」とか、自由に行けたんですね。近くにお稲荷さんがありまして……

-  境内は広かった?

小さいんです。丘の上にあって。全然手入れされてなくて、雑草が伸び放題で、子どもたちがよく遊んでいました。今、行ってみたらきれいになってて、赤い旗かなんか立っちゃって、すごく入りづらくなってしまったという感じなんですけど。

-  何歳ぐらいのとき?

小学校に入る前から小学生の低学年ぐらいかな。

-  学校に入る前は?

割と自由時間が多かったですね。入ってからはきゅうくつで……

-  あ、そうか、昼間がきゅうくつだから夕方の時間というのが、自由を感じられるんだ。

そうですね。でも、むしろ小学校入る前の記憶なのかな。とにかく、うちは共働きで母親がいつもいないんですね。それに上の兄姉が鍵を持ってたんですね。私は持ってなくて、だから家に入れないんです。そういう時もあったりとか、割と外で遊んでるケースが多かったんです。それで親が帰ってくるのを待ってて、楽しかったですよ、とても。あの時期がいちばん、子どもの時しか味わえない、自由な感覚というんですか、なんの悩みもなく(笑)。ですから夕方というのに、こだわるんです。日が沈んで行くという……日が昇る、というのよりか、日が沈んで行く、という時間帯が、とても好きなんです。

-  日が昇る時間というのは、今の人はなかなか味わえないものね。

眠くて、とても起きられない(笑)。徹夜したときとか……

-  ラジオ聞いたのは、中学?

年中かかってましたね。浪曲とか。夜になると、小さい時は親が聞いてるのを聞いてますから。浪曲がとっても気持よくてね。あれは良い子守唄だなと思うくらい(笑)。のんびりして。それから父親が音楽が好きだったらしいんですね。若い時、バイオリンかなんか自分で古いのを買ってきて弾いていたりとか。戦争があったんで、それが長続きはしなかったんで、音楽の方には進まなかったんですけど。そういう雰囲気が生活の中に残ってまして、ギターとかアコーディオンとか置いてあって。

-  お父さんは、ときどき弾いてみるとか……

ええ。古賀メロディーを。

-  アコーディオンなんか、昔は高かったでしょう。

そうですね。そのうち手放しちゃったんですね、どっかへ行っちゃった。あとは、電蓄ですか。父が言うには、私、末っ子ですから、そんなに手をかけなくて、放っておいても育つだろう、みたいな感覚で、父親がよく私の面倒を見てたらしいですね。で、音楽が好きですから、レコード聞きながら。78回転ですから、盤が大きいですね。よく子守をしながらかけていたんですね。ですから、割と古い歌謡曲とか、それから何とかのリクエスト、「9500万人のポピュラーリクエスト」とか、そういうのもありましたね。

-  初めて触った楽器は?

ギターだと思います。家にあった。とても大きくて、いえ、小さいから大きく感じて。何歳だったのかな、すごく大きく感じたから、手は小さいし。重くてね、「ヨイショ」とやって。もちろんコードは押さえられないし、コードがあるということ自体を知らなかったし、父がやってたのは、やっぱり古賀メロディーで、洋物はなかったんです。それを真似して。

-  弾けた?

4小節だけ。古賀政男さんの曲のイントロなんです。どの歌か知らないけど、それをよく弾いてましたね。一弦でメロディーを奏でるやつで。

-  ギターらしくちゃんと弾くようになったのは?

高校の時です。ブームがありましたよね、フォークブームが。その時に父親が買ってくれたんです。姉が自分のお金で買っていて、私もほしいと言ってました、日ごろから。父親がかわいそうだって言うんで、誕生日に買ってくれたんです。高校一年ぐらいの時かな。

-  ヤマハ?

わからないですね。

-  その時のギターは持っている?

もう、持ってません。高校一年の時の三月かなにかに、学校の送別会があったんです。三年生を送る会が。その時に初めてステージに立ったんです。体育館で、「ドンナ・ドンナ」。それをみんなでやったんですけど、なぜか私がソロをとることになっちゃって、最初は有志の人って、十人ぐらい集まってやるわけですね。練習していくうちに、なぜか私がソロをとることになっちゃって。それで初ステージを踏んで、そしたら、けっこう反響があって、レコードが売れたんです(笑)、そんなことはナイか(笑)。けっこう次の日から、みんなが私を見る視線が……あれも、おもしろい現象でしたね。

-  それで味を占めた?

「私、コワイのかな」とか。

-  その時点では、歌を歌っていこうとか……

ないですね。

レコードデビュー以前

-  高校を出た時点では?

高校三年ではみんなが受験したりとか、進学の道を選んだときは、自分ではまだどうするか決まってなかったんです。はっきり言って、自分の将未が全然わからなかったし、けっこう怠け者だったから、大学受験もしなかったんです。とりあえず自分が得意なものの学校に行きながら将来のことを考えようかなということで、英語の専門学校に行ったんです。そういうような考え方では長続きしないで……

-  するとは思えないね(笑)。

「ヨシッ」ということで行ったんではないですから。それで18歳の途中ぐらいで、渋谷の『ジャンジャン』が始まったわけですね。

-  自分から飛び込みで?

どういうんだったかな? あそこは当時の私たちにとっては、パリのオランピア劇場みたいな所で(笑)、あこがれの舞台だった。それで、どういうキッカケだったんでしょう……オーディションを受けたのかな? 毎週土曜日かなんかにやってましたね。なんかわかんないけど、合格したみたいで。で、月一か月二かわかんないけど、少しずつやってました。

-  その時は何を歌った?

やっぱり「ドンナ・ドンナ」。ワン・パターンです。あとはビートルズの曲とか、「朝日の当る家」とか、やっぱりポピュラーで、みんなが好きそうな歌を。まだ、歌の中に自分自身というものを投影しませんでした。ただ、やっぱり趣味で歌ってるという感じでしたね。身内で歌ってるのと、なんら変りがなかった時代です。

-  日本語の歌を書き始めたのは、英語の歌が煮詰まったからというけど、どうして煮詰まったと感じたの?

その歌を歌いにいろんな場所に出て行くわけですね。なんと、スーパーマーケットみたいな所でも歌ったんですよ。ラジオ番組の、スーパーマーケットからの中継というのが地方であったんですよ。そこでも英語の歌を歌ったりとか。そういうことを続けているうちに、お客、聞いている方がチンプンカンプンでわからない様子なんですね。歌はこうじゃいけないんじゃないかな、と思って。そこで日本語というのが大事なんじゃないかということに気が付きましてね。それで書き始めたんです。もちろん作曲家に依頼するということはしませんでした。そこまで頑固に続けるものが、やはり簡単にはゆずれないというものがありましたから。ポピュラーな音楽にならなくても、何しろ自分で書き始めることが大切なんだという、それで書きました。「なわとび」「雨」「少女」「あなたを追いかけて」、最初はそのくらいで、あとはもっと曲を増やさなくてはと思って書いて行ったので。ほとんどが自分の子ども時代からのことですね。

デビューしてから

-  海外録音にしたのは?

私がやりたくて。それまでキャロル・キングとか大好きで聞いてたんですけど、やっぱり既存のレコード、当時いろんなのありましたけど、聞いているうちにどうしてもアメリカのほうがいいんですよね。それで絶対にアメリカでやりたいと思ったんですよね。お金とかは全然無頓着だったんで。ただ望みだけを抱いていました。事務所が「よし、やってみようじゃないか」ということで、そういうことになりまして行ったんですけども。

-  アメリカでレコーディングしたいというのは、主にミュージシャンの問題で?

そうですね。後にセクションとやりましたけど、こちらは弱冠二十歳ですからね。なんせ20年というのは、こんなに開きがあるとは思いませんものね。

-  当然、話題になりました。そういう歌い文句と実感との間にズレはなかったですか?

もちろんありました。大きな開きが、内側と外側の。外側は華やかに、キャロル・キングをバックに、アメリカでレコーディング! 中味を見て、とても繊細な、極端にいえば人に言えないような悩みをもっている内容の歌なんです。そのへんのギャップが大分ありましたね。「少女」なんていう歌がそうですね。ポピュラーソングというよりは、自分の内面的な私小説的な歌、それがああいうふうにメジャーというか、上皮に包まれて、ちょっと中味が見えなくなった人もいるんじゃないかと思って。往々にしてほんとうの「少女」の歌の中味が見えなかったんじゃないかと思います。いかにも恵まれたお嬢さんがデビューしたような……

-  その当時は、向こうの人と直で英語でしゃべれた?

ポツ、ポツ。何しろ、大海をはさんだ所どうしですから。おそる、おそる、というところがありましたね。それはお互いにあったみたいですけど。向うは地元だから強いんです(笑)。やっぱり遠慮しながらになってしまいましたね。今、聞いてみたら、緊張した雰囲気が出ていると思いますよ、声の出し方からして。「ワーッ」と日比谷野音かなんかで出すような荒っぽさはないですね。初めてのスタジオ・レコーディングでもありますし。

-  初めてで、しかも外国で。

超ド緊張…… ド緊張、ド緊張(笑)。あんまり緊張しているもんで、みんなが「マユミ、マユミ」ってリラックスするようにしてくれるんですけどね。いい雰囲気だなァと思うくらいでした。

-  マスコミの取材が盛んになったでしょう?

五輪真弓の取材では何を聞いても答えないって、けっこうマスコミでは評判悪かったんですよ(笑)。「好きな色は?」なんて質問までも、くだらなく思えて、答えなかったんで。

-  デビューしたあとのコンサートでは、バックを付けたの?

帰ってきたばかりの時に日比谷の野音に出た覚えがあるんです。その時のアメリカのプロデューサーのジョン・フィッシュバックがカッティングのために来ていて、その人が袖で見てましたね。野音でギター一本とかピアノとかで、やりました。あとは、コンサート、不思議と覚えてないですね。レコード出す前の青山タワーホールの、がらんとした客席のことは印象が強いけれど。

-  日比谷の野音には、いろんな人が出てた時期でしたでしょう?

出てましたけど、もう斜陽でしたね。完全にお客さんも熱はさめていて。

-  CMに出ると……

京都で加川良さんと一緒のコンサートの時、彼が冗談で、「煙草のけむり」と歌い出したらワァーッと盛りあがっちゃったんですよね。私も知らなかったの。それ自身恐ろしいものがありますよ。どんどんふくれ上がるんです。知らない所で。そこの場面をはっきり覚えていますよ。

-  その当時は何を着てました?

私は、もうジーンズです。

-  最初から?

フォーマルは全然持ってません。

-  自分の気持にフィットしました?

フィットです。大フィット。それこそ自分のためにあるような(笑)。

-  身につけるものでは、ジーンズ以外には?

綿が多かったです、コットン。たっぷりしたもの。そればっかり。着たきり雀みたいな。Tシャツも好きでしたね、印刷したやつ。それでよかったんです、ギター一本で。

-  その頃、本なんかはどういうものを読んだんですか?

あまり読んでませんでしたけど、宮澤賢治とかですね。夏目漱石はもう少しあとでした。賢治は家にあったのではなくて、自分で買ったんですね。読もうと思ったんですね。おもしろかったんですね。それと、割と盛岡に行く機会があって、アマチュア時代から。あそこへ行くと、あちこちに宮澤賢治の言葉が書かれたりして、名物になってますね。けっこう盛岡も親しみを感じてましたね。

-  課題図書で何か読まなかった?

うーん、私って、なかなか最後まで到達できないんでね。後半は「うん、きれいだな」、前はけっこうふくらみがあるのに(笑)。あんまり長い本をバーッと読むことができないですから。貧血症のせいかもしれない、アハハハハ。

-  その頃は、ファンレターなんかは?

事務所には来たんだと思います。デビューの時は、何しろ「売れる」ということがどういうことか、自分でもわかっていなかったし、まあ、レコードは出しちゃいましたけども、出せばどういうことが来るのか自体はわかりませんでした。レコード出した直後は、とまどいの時期ですね。自分の知らない所で聞かれて……お客が集まってくる事態が把握できなくて。なおさらに警戒心が強くなって。LPのほうが売れて、自分自身は外側がメジャーになったのに反して、心は中へ中へ入っていくばかり。そういう時期でしたね。

-  そうなることによって、自分で作るほうヘエネルギーを集中する結果にはなったんじゃないですか。

本来、よかったんだ。売れることが目的じゃないし、自分自身スターになりたいとか、誰かを見下してやりたいとか、そういうようなものじゃないですからね。自分を発見したいという純粋な気持でスタートしましたから、びっくりしたんですね、そういうような、ヒットということに。とても、うろたえた。巻き込まれちゃいけない、華やかな所、明るい所には、いろんなものが集まってきますから、それに巻き込まれないようにということから、結果的にはインタビューでも安易なことはやらなかったわけです。有名になりたい、売れたいということだったら、そのレールに乗ってっちゃったと思うんですけど。そういう自分の意識がエネルギーを貯えていたんだと思います。

-  当時は、アルバム用の曲とかシングル用の曲とか、区別なんてものは……

ないなあ。そんなの最初からあったら気持悪いですよねェ。そんな計算はないですから。とにかくインスピレーションだけで、不器用なんです。

-  詞を先に書いちゃうのは、いつごろまで続いたんですか。

かなり続いた?現在でも? 場合によっちゃ、そうです。ほとんど同時とか……もちろん、パッと出てくるのではなくて。最近はメロディーが先に出るほうが多いですね。

-  アルバムでいうと、どのあたりからメロディーが先に出てくるようになったんですか?

「さよならだけは言わないで」も「残り火」も詞が先ですね。「合鍵」も「恋人よ」も詞が先ですね。その次ぐらいからでしょうかね。「マリオネット」ぐらいからですね。あと、詞も曲も、場所も時も別々にできたのが、ドッキングするという場合もあるんですよね。「ああ、あのメロディーにはまるな」とか。「そうか、これくらい時差があるのか」とか(笑)。「恋人よ」というのは、やっぱり頂点みたいなところがあったんですね、作曲活動においては。自分がだんだん昇って行きますよね、「さよならだけは言わないで」「恋人よ」と、いわゆる別れの歌の集大成、これで極め付け。外の反響もそうだったんですが、そこからは、ちょっと違うやり方になってったんじゃないかなと思うんです。もっと楽に考えて、メロディーがワーッと先に出てきて、というふうに。

-  二度目の海外録音のときも緊張しました?

2回目は大分楽で、また同じメンバーだったんで。依然、言葉はそんなに通じませんでしたけども。もっとボーカルも力強くなった。リラックスできてたんじゃないかな。

-  洋楽っぽい曲を作るという意識は?

なかったですね。詞が先行ですから。「煙草のけむり」も詞を聞かせたくて、メロディーを付けただけですから、けっこうだらだら長いですよね。洋楽的にという意識はなかったですね。

-  家のなかでは古賀メロディーが流れていたのに、出てくる曲は洋楽っぽい感じ。どうして、そうできたのかな?

そうねェ、古賀メロディーといっても、なんか結び付かないでしょうね。その現象は、「さよならだけは言わないで」以降に出てきたと思いますよ。私はスタイル変えましたね、1978年から、歌謡曲の色が強くなりました。それまでは歌謡曲をやるのは恥ずかしいという気持で。あえて、そういうものは作らなかったです。やれば作れたんでしょうけれども、何か恥ずかしい。歌謡曲ってやっぱり何か保守的なものがありますよね。若い世代には新しいものが必要だから。自分自身にも、そういう考え方があったと思います。

フランス、パルコ、「恋人よ」

-  レコーディングするまではフランスヘは?

全然行ってないです。地図上では奥の方にある暗い国だなという感じだったんですけど。けっこう不安でいっぱいでしたね。でも、その不安よりも、日本での自分の音楽活動というものにスランプを感じてましたんで……

-  どういうスランプ?

作品の煮詰まりと、お酒には走らなかったですけども、アハハハハハ。『Mayumity』の時かな? けっこう精神的にはすごく疲れてましたね。何しろ、何もやる気がなくなっちゃったというか……絞りだすようなやり方で書けば書けたと思うんですけども、そのやり方は嫌だったし、ちょっとここで休息が必要だなと思ったんですね。それで無理矢理……

-  気分転換?

それもありましたね。フランス行きの話はちょうど向こうからCBS経由で来たんです。なので、この際、やってもいいかなっていう感じで。あまり積極的じゃなかったんですけども、むしろ向こうに引っぱられるような形で。いったい自分が何をやるんだか、わからなかったけれども、とにかく行ってみることにしたんです。

-  その時の曲は向こうへ行ってから書いた?

いえ、すでにある曲をフランス語訳して。

-  それで行ったところが、アダモとのジョイント・コンサートとか、はずみが付いてしまった……

そうですね。CBSコンベンションという、世界各国から代表が集まって、そこでそれぞれの国のおすすめを聞かせるんですね。そしたらフランスが飛びついた。『Mayumity』を聞いたのかな。そもそもは、それがキッカケですね。誰もどうなるかわかりませんでしたね。ですから、向こうとしては日本人の若い女の歌手ですね、とてもエキゾチックで、かわい子ちゃんの売り出しをしたかったみたいですね。そのほうが人々が受けいれやすいわけだから。でも、複雑な詞を歌ったので、商業的には結びつかなかったですけれども。ただ、私がそこでかわい子ちゃんで成功したとしても、道を踏みはずしたなと思うだけで、それはそれで良かったと思います。

-  ということは、CBSの思わくからは外れたわけだ。

そうですね。日本側は全然わかりませんよ。日本側はさっき言いましたように、誰一人何も知らなかった、どうなるのか……。なんでアメリカというビック・マーケットを狙って行かないのか、なんでフランスに行くのか、という感じでね。でも、私は売れたいから行くのではないから……

-  帰ってきて、しばらく時間があるけれど、パルコ。

そうですね。フランス自体は私にはとっても強い刺激があって、その後の自分の人生の道しるべになったような気がしますね。音楽だけに限らず、私がそこにいたことが……

-  見るほうから言うと、五輪真弓は髪が長くてジーンズで、というイメージが、スコーンと変ったような、一種のカルチャー・ショックだった……

アハハハハハ……色彩感覚だとか、そうですね、けっこう、かまわず変身してしまうタイプですね。フランスに行く前と行った後の曲作りが、それこそガラッと変りましたね。昔のファンからすると、「ちょっと変な所に行っちゃったな」なんて感じるでしょけど。

-  昔の人はフォークとか“こだわる"人が多いから、そういう人から見たら、まさにカルチャー・ショック。

ですねエ。

-  しかも、パルコでやったんだから。

パルコでねェ。

-  ああいうことって、気分も変ります?

変りますね。それまでは、着る物にこだわらなかったんです。いわゆるシンガー/ソングライター、メッセージを伝える人。フランスヘ行ってからは、視覚的なものを取りいれたい、と。ビジュアルというんですか……それで楽しめる舞台にしたい、と。もちろん、自分もその一道具にならなくちゃいけない。それまでは楽器から離れると、どきどきしちゃうんだけども、ハンド・マイクで歌い始めて、ちょっと振り付けしたり、自分が歌手であるという意識にも目覚めたんじゃないかな。それまではシンガー/ソングライターして、曲を作ったついでに歌ってるというような、歌手というのには全然いっていなかったんですね。

-  ハンド・マイクを使って歌うようになったのは、フランス以降?

そうです。それまではハンド・マイク持っても、もう一方の手をどこにやっていいやら手持ぶさたで、なんかとっても恥ずかしい思いをしたんです。

-  スランプだなんて言ったけど、フランスヘ行って吸収するところ大だったじゃないですか?

はい。そう思います。スランプといったのは空白状態のことで……アハハハハハ。空白だったからこそ行ってこられた……

-  パルコのコンサートは何年続いたの、ずいぶん長かった……

続いた年も長かったけれど、一回も長かったですね。最初は勉強のためと思ってやってました。大ホールと違って、客席のうしろまで歌う私の表情がとどく。そんな状況のなかで作曲者の私ではなく、演技者としても五輪真弓を磨きたかったのです。ロングランでは、お客は日にちを選べていいかも知れませんけれど、やってるほうは大変ですよね。映画のロングランとは違うから。肉体労働、重労働ですから、精神のほうもすり切れて行くし。あの日は良かったけど今日はよくないとか、あの日は冷めていたとか、盛り上がってよかったとか、その繰り返し。実際、今、考えてみると毎日がとてもいい勉強でした。

-  今、三週間の長丁場やれと言われたら?

普通のツアーだったらお客さんも変るし、場所も変るけれど、それに、ぶっつづけの三週間はいろんな意味できついものがありますからもうやることはないでしょう。

-  それにしても、初めてのことを、いっぱいやってるんですよね。

そうですね。やっぱりあの時期は新鮮でとても良かったと思います。これから自分自身が盛り上がるぞという感じでね。

-  それまでのところは、ステージやったにしてもパルコみたいに集中的にはやらなかった?

たいていギターとピアノ、今度はピアノ、3曲続けてギター、4曲続けてピアノ、絵柄も何もないわけですよね。舞台というものがわかりかけてきた。そういう時期でしたね。でも、舞台で倒れて入院したときに「もう駄目だ」と思いましたね。

-  いつ?

'81年でしたか、「恋人よ」の翌年ですね。

-  持病のある人ですか?

ないんです。いたって健康で。けっこう働きましたから。何か出てもしょうがないですね、宿命みたいなもので。体が疲れちゃって。で、倒れて「もう駄目かな」。あ、「もう駄目だな」と思いながら、またやったのかな、パルコ(笑)。そういうシステムのレールに乗っかっちゃってたから。倒れる一カ月ぐらい前から、体がオカシイなと思ったのかな。でも舞台で気が入ってくると、元気になって。終わるとぐっと。結局途中で一幕終わっちゃったのかな。一部の最後のところで「最後だからがんばろう」と思ったけど駄目だったんですよ。自分でもびっくりしちゃった。これでもう限界だと思いましたね。救急車が来て。それで幕が閉じました。同じことをずっとやるというのは、なかなかきびしいものがありますね。「時の流れに」を歌ったときにもうパルコは卒業だなと思ったんです。「時の流れに」は産後のコンサートですね。

-  「さよならだけは言わないで」は「恋人よ」への重要なステップだったわけだ。これがなかったら「恋人よ」へは飛べない……

はい。そうですね。「さよならだけは…」は私にとってはとても冒険の歌でした。なんか恥ずかしいけれど、この歌もテープに入れておこう、といった……そしたら、中曾根ディレクターは「さよならだけを……」をシングルに選んだんです。事務所の人たちも私のイメージを大事にしていましたから、そういうことはやりませんでしたけど、CBS・ソニーの外側から見た五輪真弓というのは明らかに「さよならだけは言わないで」に光があったんじゃないでしょうか。自分では気がつかなかったですけれども、小さい時から歌謡曲は歌ったりしてました。すごく恥ずかしい気はしましたけど、なんか説得力があるというか、身についているものがあるというか(笑)。「隠してたナ」という感じのね(笑)。シングルが出たら、案の定、ヒット街道に。

-  「恋人よ」も詞が先でしたね。あれは何かキッカケがあった?

あれはなんともなしに書きました。何曲か書いてたんですけど……あ、そうだ、そうだ。やはり今度シングルを出すというんで、3曲ぐらい書いたんです。そのなかの1曲ですね。あの歌は、最初から詞が決まってましたね。あっという間にできた詞です。

-  ああいう大ヒットというのは、作った側から見ると、どういう感じがしているんですか?

文句なく「うれしい」ですね。別に誰が仕組んだことでもなく、ほかの誰が書いたものでもなく、ものすごく自然発生的だったから。もし、作品のなかに「作為」がこめられていたとしたら自分が何かしら、あまりいい気持はしなかったと思うんです。とても自然発生的にだんだん上のほうに上ってくるというのが、とてもうれしかったですよね。それに自分の歌の味も、とってもよく出てると思ったんですよ。この1曲を歌えば、その時の私自身がパーフェクトに近いくらい理解される。ですから、あの歌を歌うときは絶対、手が抜けない。今でもそうですね。

-  アレンジは変ってるでしょう?

ステージの時は変えたりしてるので。でも、基本的には変えてません。ちょうど船山さんが、最初の弦の40秒の、とっても長い、今ではありえないかも知れないけれど、まるで映画音楽のように最初を盛りあげて。皆が皆、あの時はよかったんです。実はボーカル・ダビングはリズムどりのあとすぐ歌ったやつなんですね。「もう、とっちゃおう」なんて歌ったやつなんですね。演奏のあと、ミュージシャンがドラムとか片付けている最中に、ボーカルのブースに入って歌ったもの。

-  香港で海賊盤が出たのは?

出てましたね。それで向こうで有名になっちゃったから。大分出てたんで気が付かないうちに、有名になっちゃった(笑)。コンサートで空港がすごかったですよ。

-  あれは、カバー・レコード?

そうです。アレンジもいっしょで。それが先に売れていて。

-  香港でヒットする人は、単なる名曲ではなくてボーカルが良くないと駄目。ボーカルの名曲なんですね。香港でのステージはアダモの時とは全然違うでしょう?

フランスではフランス語で歌わなくちゃいけなかったし、リアクションも良かったですけど、それはやっぱりアダモさんが私を招いたから、アダモさんのために私に拍手したということもあったと思います。それに比べ香港のステージというのは、ものすごく良かったですね。当時、ひじょうに力を与えてくれたコンサートでしたね。「もっとガンバレ、もっとガンバレ」って、皆が皆。野外でやったんですけども、サッカー場みたいな、7,8千人集ったんだと思います。どの顔見ても、「あこがれの人が来た」みたいな、何もかも忘れて私の歌を聞いていてくれる、目はキラキラ輝いて。勇気づけられたコンサートでしたね。外国へ行って何かしら力を与えられるという……香港では、歌手というより作家というイメージが強かったみたいですけど。先に、現地の歌手に作家の名前で有名になっていましたから。それで紅白歌合戦に出たら、また香港でフィーバーが起こっちゃったらしいんですね。最新のアルバムまで知ってるんですね、よく知ってるんですよ。

-  インドネシアにも行きましたね。

ええ、ジャカルタ。あれは産後すぐで。私が休業中に起こった現象で。行ってもいないのに有名になっちゃったんです。今度は「心の友」で。

-  向こうの子があなたを指さして……

私が街を歩いていると、「コッコロノトモ」。税関行っても「コッコロノトモ」(笑)。日本語なのに、どうしてあれほどヒットしたのか、いまだにわからないですけどね。

-  五輪さんの場合は、歌でもって世界を制覇しようという野望はないでしょう。それなのに歌が香港やジャカルタでヒットするというのは、おもしろい。

英語だと世界に通用するでしょうが、それに比べると、日本語で勝負しようというのはむずかしいでしょうね。ただ、自然に受けいれられるのは珍しいと思います。

子ども

-  子どもには音楽をやらせようと思いますか? 
やらせよう、とは思いません。本人がどの道を進むのか、私は傍観者です。人生の選択は自分でするように仕向けている、ということでしょうか。 

-  子どもというのは……
愛の発生源ですね。

-  子どもがいると、親のほうが愛というものに目覚めさせられる、ということ? 
そうです。それだけでも、子どもをもつ価値というのはありますね。つくづく思います。向こうは無心に、なんの計算もなく、親に対して愛を感じてるわけですね。その姿を見ること自体、その領域、愛の領域に入っちゃってる。ほかの誰でもない、自分を思ってくれる、無償の愛というんですか。そういうすばらしいものは、子どもをもって初めてわかる。それだけに、言葉に出さなくても、ものすごく感謝している自分がいるんですね、子どもに対して。ですから、責任感は強いですね。子どもが自分の道を選べるまで導いていってあげなくちゃいけない、そういう責任感ですね。そしたら、子どもたちも自分の子どもに対して伝えるのではないかと思うんですね。時代というのは、どんどん重ねられて行くというか、ずっと続いて行きますから、そういう意味でも子どもが進むべき正しい道に進ませるというのは、ある意味では人間として生れた義務のような気がします。

-  新聞とか雑誌とかで「人生相談」みたいなのを受けもったこと、ありますか? 
ないですよ、そんなの(笑)。デビューに近いとき深夜放送で葉書の相談ごとが来ていて、それに答えた程度で。「一人で生きて行けないんです、どうしたらいいんでしょうか」「もっと強くおなりなさい」。それで終りです(笑)。苦手です。「ああ、かわいそうに」とか聞いていられるようなタイプじゃないんですね。ただ、今は昔とはちょっと変ってるかも知れないですね。子どもをもってますから。子どもの言うことは、聞いてあげますね、やっぱり。そういった、聞いてあげる姿勢というのはできています。

-  おとなの相談ごとでも? 
相談されたらできるのではないでしょうか。そういう余裕はできてきています。ある程度、年はとりましたから。

-  子どもに作った曲というのは?
ないですね。子どもから受けた印象とか、そういうので書いた曲はあります。「風の詩」なんていうのは、そうですね。子どもをもって改めて自分の中にある子どもの心、そういうものをなつかしく思い出す。そういう気持で書いた歌です。母親をしたう心…… 

-  子どもによって、いろんなことを思い出させられる……お宅は地面はある? 
あります。広くはないけれど、花を咲かせられる程度の土は。はだしで歩くこともできます。私は都心にいましたから息子が生まれたときはマンションぐらしだったので、子どもに土を踏ませたいと思いましたね。子どもって歩いているときにもよおしますね。都心だとないんですよ、い

スタンス

-  テレビに出るということに関しては、「出ません」なんてことはなかった?
途中からなくなったんじゃないかな。「少女」のころから、テレビ出演の依頼は来てたらしいんです。その時は出る気はいっさいなかった。昔は「テレビに出ると汚れる」というイメージがあったんですよね。

-  ケーブル・テレビは、どういう点がおもしろいですか。 
はじめは、好きな時間に映画を見れることがいいと思った。その他は、要するに、ニュース専門チャンネルとかあるんです。普通のテレビだとニュースやってる時間って限られますでしょ、6時とか、夜の11時とか。ケーブルは一日中やってるんです。しばらくの間は、同じニュースの繰り返しですけどね。それに音楽ビデオのチャンネルがあったりとか。ずっと家にいなけりゃならないんですよね、子どもがいますから、そういう状況で外のことを知る手段です。 

-  湾岸戦争のときは? 
それがNHKしか見てなかったんですよ、NHKは一日中やってたでしょ。あとは天気予報のチャンネルとか、あとは字幕の、なんというんですか…… 

-  モジモジ放送? 
そうそうそう。それから地元のテレビ番組というのもあって、けっこうおもしろいですよ。お隣さんがテレビに出てるって感じで。まあ、ケーブル・テレビも含めて音楽番組見ても、最近はドキッとさせるものがないですね。 

-  ソコソコに良いものは、たくさんあるけれど。
言葉は悪いけれど、ちょっと出がらしの状態かな、というところで。新しいものが生まれるまでに、まだ時間がかかるんじゃないかな。もしかしたら生れないのかな、とか。

-  そういう感じは最近もつようになった? 
かなり前からですね。 

-  「Wind and Roses」なんて曲は、そういうことを感じるようになってから書いている? 
うーん。そうだったかな……世界的に見ても日本を含めて、名曲が生まれてないんじゃないかな。それを感じ始めたのは、いつからか……最近ではないですね、もっと前からです。人々の波長に合うように作られた曲は、いっぱいあるわけです。それはその時その時のもので、あとに残って行かないわけですね。どれを聞いても同じというか、誰かが人気があるというのは、それを人々が聞いているから人気が出てるんでしょうけれども、何が彼らを聞かせるのかというと、やっぱり、それぞれが人々の波長に合っているからだろう。客観的に見た場合は、一個の曲としては成り立ちにくいんじゃないか。完成された曲というのは、その時代だけの歌ではないですから。いつまでも残って行くものですから。

-  五輪真弓は、自分のスタンスを、どう置いてやって行こうというのですか? 
引退です、とは言えませんね(笑)。引退ですと言えば、話はつながるんですけれども(笑)。「もう希望はアリマセン」なんて(笑)。私は、やっぱり、そういった名曲を作りたいですね。いつまでも、曲が独り歩きするような、私がいない所でも、いつのまにか聞かれているような、国境を越えてどこまでも行ってしまうような……それは計算では書けないんですね。どんな曲かもわからないんですね。それで、自分がやらなくちゃならないって、自分に帰ってくるんですけどもね。けれども、簡単には行かない。まあ、時が来るのを待つしかないんじゃないでしょうか。

-  そういうことはあるとして、この20年、やってきてよかったですか? 
よかったです。歌一筋ではないですけれど、それだからこそ、よかったです。

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